コリント人への手紙 [A will]
たしか高校二年の倫理社会の授業だったと思うが、
先生が「一番大切だと思う物は何か?」について一人ずつ答えさせた。
そのとき父ははっきりと「愛です」と言って、大爆笑をかった。
これは余りにも有名な新約聖書の中の言葉だが、
もし君達が触れる機会がなかったらいけないと思い書いておく。
(君達に理解しやすいように、一部父なりに書き換えてある)
その頃この言葉と出逢って、一体何度読み返したことだろうか。
大変強い説得力と影響力を持つこの言葉は、まるで呪縛のように心を締め付けた。
何度もくり返し読み、一つ一つの言葉を噛みしめ考えることから始めてごらん。
君達もそれぞれ彼女が出来て、この言葉の意味を深く考えなければならない時期が来たようだ。
恋し、結婚し、子どもが産まれて、愛することが出来るようになるまで、
何度もこの言葉を思い出して考えて欲しい。
そして、やがて、いつか、この言葉を全く違った意味で考える日が訪れるかも知れない。
「たとえ私が人々の言葉や使徒たちの言葉を語っても、
もし愛がなければそれはやかましい鐘やシンバルと同じである。
たとえまた私に預言をする力があり、あらゆる奥義やあらゆる知識に通じていても、
また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ私は無に等しい。
たとえまた、私が自分の全財産を人に施しても、
また自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければいっさいは無益である。
愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。
愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない。
自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。
不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。
愛はいつまでも絶えることがない。
しかし、預言はすたれ異言はやみ、知識はすたれるであろう。
なぜなら私たちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。
全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。
私たちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り幼な子らしく感じ、また幼な子らしく考えていた。
しかし大人となった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。
私たちは、今は鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。
しかしその時には、顔と顔とを合わせて見るであろう。
私の知るところは、今は一部分にすぎない。
しかしその時には、私が完全に知られているように完全に知るであろう。
このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛とこの三つである。
このうちで最も大いなるものは、愛である。」
新約聖書:コリント人への手紙より
新年早々
角松は 冥土の旅への 一里塚
というわけで、また歳をとってしまった...。
今朝、大きなダンボールの荷物が届いた。
早速開封する為にカッターナイフを取り出した。
開いてみると、中に小さな段ボールが4個ほど。
それらをとりだして、カッターナイフを探すと..あれっ、無い!!
仕方がないので(急ぐので)、もう一つのカッターナイフを取り出して..
順次開封したあと、また探すことにした。
まぁ、今までの経験上、ものが見あたらない時は不用意に置いたケースが多いから
心当たりのないところを探すべきだ!!(ぉぉ歳の功)
ホラ出てきました、やっぱり変なところに置いていた。
さて、ダンボールの中身を片付け終わって、アリャリャ二個目に出したナイフが無い。
おかしいなぁ、何で同じことを繰り返すんのかいの~?
まぁ、心当たりのないところを.....無い!!
頭にきた!(きてもしょうがないけど)。
延々探すこと30分。動いた記憶にもないところから出てきた。
教訓:注意一秒、記憶は飛んでく~~~(笑)
とうとう
あわててタイヤを替えたり大変なのに、今年はなかなか積らない。
と思ってたら、とうとうお山がウッスラと雪化粧した。
まだまだ平地は平気だが、そろそろタイヤの交換をして置かねば。
雪起こしの風が吹いて、寒かった~。
天皇誕生日
今日は、天皇陛下のお誕生日です。
謹んでお慶び申し上げます。
是非善悪を超絶したところで尊敬でき、世界に誇れる陛下です。
習気 [A will]
可哀想なのはサリエリである。
と言っても彼も衆人に抜きんでた才能の持ち主であるが、
如何せんモーツァルトには及ぶべくも無かった。
この評価は映画アマデウスに影響された表現だが、真実がどうであるかはここでは関係が無い。
この様な関係は現実によくある話しである。
そこそこの衆に抜き出た才能を持って生まれたが故に、還ってそれが彼を苦しめる。
幸せとは、普通に言われる才能とは違う才能を必要とするのではないか。
「人生とは何か」とか「自分とは何か」と言った疑問を持たないで、
苦悩や懊悩はあるものの、それなりに無事人生を送るのも幸せかも知れない。
父はこのところ禅の本を読み漁っている。
いや、父のレベルでは読み散らかしているだけだろう。
そこで、フト思い当たることがあった。
習気(習性;性癖など身につけたもの)が全く抜けてないなと。
何をするにも本を買い漁ってしまう癖がある。
英語の勉強や、ゴルフや囲碁に嵌った時もそうだった。
実践が伴わないのである。
入門書ばかりを読み続けて、城の外堀をスコップひとつで埋めてるようなものだ。
でもそれなりに城を眺めて徐々にイメージは出てくるのだが、
城に直接乗り込んでみるのとは天地懸隔の差がある。
才能のある奴は、単刀直入に城に乗り込んで一気に透過してしまうのだろうが、
何時までたっても、もたもたと外堀の周りを彷徨っている。
人生は短い。 君達は父の轍を踏んではならない。
鈴木大拙著「今北洪川」より。 [A will]
幕末から明治にかけての高僧 今北洪川禅師の話。
洪川禅師と無二の法友である貫宗和尚が、洪川禅師好物の松茸を送った。
当時の輸送事情から、どうもそれが着いた時には腐敗していたらしく食べられなかった。
そのことに関しての、洪川禅師から貫宗和尚への礼状が素晴らしい。
「昨秋御地を辞する時、松茸の時分ならんも、亢陽(日照り)に圧せられ、未だ其の景況もなく、
一つ喫して鎌倉への土産にせんと存じ候へども、中々目にも触れず、浪華へ至り、
試みに青物店を探索致させ候ところ、小指の如き小松茸一箇代価四十銭と申すこと故、
貧道喫驚するのみにして、遂に松茸を喫すること能はず、空しく帰鎌、只だ遺憾の一語を土産とするのみ。
然るに十月一日頃、横浜福井忠兵衛より、端書僧堂へ到来、荷物到着の由申し来り候に付、
大衆(僧達)の荷物と存じ、四五人差出し候処、荷物の他に蜜柑籠一個あり、更に重みなし。
怪しんで之を開けば、松茸全く腐敗して水となり、木札の表には「金閣寺納所より円覚寺僧堂釈宗演殿行」と記し之あり、外に書状などなく、皆々残念と叫んで、水を捨て籠を福井へ残し、木札を持ち帰り野衲に示し候間、野拙其の木札を高く拈じて大衆に示して曰く、古語に 食えども其の味ひを知らず といふは孔夫子の語なり、今此の珍物吾は云はん。
食はざれども深く其の味ひを知るべし と。
且く道へ是れ何の味ぞ。 (それは何の味かわかりますか?)
自ら代って曰く、友愛の至味その甘きこと蜜の如しと。
衆皆低頭して退く。此の一絡索(いきさつ)を書して謝となす。
伏して乞ふ照諒せられんことを。」
この文を読んで、感得せらることは人それぞれだと思うけど、父は目頭が熱くなりました。
ここだけを取り上げて慮れと云っても、それは無理があるとは思うが、
君達が歳を重ねていく上で醸成すべき人格の指標がそこにある気がするのだ。
備忘を兼ねて残しておきます。
「光陰タキオンの如し」或いは「片田舎の静かな日々」 [A will]
日の出はいつも美しい。
写真で見るより、実際に見る山の変化は、激しく美しく輝いている。
もう一月も経ってしまったが、大好きな湯来ロッジのデッキの写真も残しておこう。
ここでの、コーヒーを飲みながらの読書は至高の喜びだ。
約束は果たされてこそ約束か
最近続けている徘徊の成果か、すたこら歩くのが苦にならない。
真っ直ぐ宝物館に着いた。過去何度も入館を躊躇ったところだ。
結果は...予想どおりでした。期待しすぎだったかなぁ。
お目当ての平家納経は感動はしたけど、たった三点のレプリカじゃぁねぇ..。
平家納経を紹介してるホームページの方がましだなぁ。
ウロウロ歩いているうちに脇道露地の上り坂を登ることに。
徘徊してなかったら、さっさとご遠慮申し上げる道でした(笑)。
出たところが多宝塔のある場所で、ここで二人とも一服しました。
そこから紅葉谷へと歩いていると、「ゴォ~ン」と鐘の音が....。
「もう昼になったんかね?」と愛する奥様はノタマウ(おなかがすいたのね)。
「いくら何でも違うじゃろ~!誰でも撞ける鐘じゃないか?」
と言ってるうちに、また大聖院入り口に着いてしまった。
せっかくじゃけ~、お参りしようネと階段をとことこ登る。
ありました!「諸行無常 是生滅法 生滅滅已 寂滅為楽」とある鐘が。
ふたりで一回ずつ撞きました(まだ昼前だよ~ん)。
ここの紅葉も綺麗なので写真を撮ってると、優しい僧侶さんが「此処(摩尼殿)の奥に行くと、一番綺麗な写真が撮れるよ」と教えて下さり、無遠慮に奥(てっぺん)まで上がりました。
(こちらのブログに摩尼殿の詳細が。Hirolinさん、勝手にリンクしてゴメンなさい)
太宰府に行っても息子の合格祈願をしなかった僕と違い、慈愛に満ちた母である愛妻殿は受験生三男坊のために合格お守りを買いました(ヤッパリね)。
宮島に渡ればお決まりの「三遊姫」さんで「にぎり天」を!!(ここのが一番旨い)
今回の本目的「うえの」のあなごめしをいただきに。
洗心洗脳 [A will]
仏教関係の本を読み散らかして、少しの時間が過ぎた。
これは自分による一種の洗脳である。
「洗脳」という言葉は、怪しい集団による若者の洗脳によって引き起された
悲惨な事件や北の方の連想やSF映画スパイ映画からも良いイメージがないようだ。
これが一文字変わって「洗心」となると、少しイメージが変わるようにも思える。
洗脳は知的理解というか知識構成の洗い直しだが、「洗心」は倫理的要素も含めた
人間の根源的意味における洗い直しのような気がする。
自ら望んだことであるから、この洗脳に抵抗しているわけではないのに
一向に洗脳されないのはどういう訳だ(笑)。
どうにも自分では「百尺竿頭」の処や「進退窮まる懸崖」にもたどり着けない。
そこからまだ先があるというのに...。
そう言う意味で、そこに追い込んでくれる有能な師が必要になってくるのだろう。
最愛の女房殿へ。 [A will]
酔っぱらった勢いで、憶面もなく書こう。
最愛の女房殿よ。
「今一番何がしたいですか?」
夢のような人生で。
後にも先にもたった一度の人生で。
二つを選ぶことの出来ぬ人生で。
SuddenDeathの人生で。
子育てだけが生きがいですか?
ひょっとして、生きがいを求めていませんか?
生きがいだけが人生ですか?
やりたいことをやればいいじゃないですか。
やりたいときにやりたいことを。
あなたはぼくで、ぼくはあなただ。
やりたいことってなんですか?








